昭和42年9月12日 夜の御理解



昨日までは、あんなに暑かったのが、今日は、嘘のように、事にあの、冷房の効いた部屋なら、ほんと、冷房の効いてない部屋のように、違う天候でありましたが、自然の働きというか、そういう、自然の働きの中にある、本当に、ぱらっとしか降らなかったような雨でも、もう、それは、人間の力で、どれだけ、えー、致しましても、敵わないようにお湿りを感じる。ねー、風でもそうですよ。こういう、暑い寒いでも、おー、今日の、夕刊にも書いてございましたがあの、自然の、この、冷房と言ったような事が書いてございましたですね。神様の、この冷房装置を、してくださったように、今日は一日、涼しい、ね。場合によっちゃ、寒いような感じの日でございました。昨日までは、もう、私は、大体が、暑がりですから、もう、昨日なんかでも、効かせなければいけんのですけれども、それで、私も、今日だけは、あー、冷房を使いませんでした。そういう、うー、偉大なというか、偉大なというよりも、そういう限りのない、神様の働きというものをです。私共の、心一つで、自分の身一つの上に、頂いていけれるというのが信心だと思うのです。そういう働きを、私共の上に、いや、私一人のために、頂けれると言う事。ね。金光様のご信心の、素晴らしいというところは、そこだと思うのです。いわゆる、私一人のために、天地が自由になって下さると言ったような、おかげが頂けれるという事でございます。今日、私の方では、ちょっと、おー、んー、客人が見えまして、それも、もう、何回も、おー、またここへ見えられなければ、私、お会いしなればならなかったんですけれども、えー、先方が。あー、見えるという時には、こちらが都合が悪いし、こちらが都合の良い時には、向こうが悪いというように、何回もお流れになっておりましたんですけれども、今日は、見えられてから、ああ、なるほど、今日は、こういう、涼しい、今日は、じっと居って頂きましたので、んー、まあ、どの部屋も使わなければならないという状態でしたが、どの部屋を使いましても、まあ、先方としては、冬ではなし、暑くもなからなければ、寒くもない。といったようにですね。えー、まあ、天候の上だけではございません。私共は、気が付かないところにも、どれほど、神様のそうした、あ、その、おー、偉大なというよりもですね。限りのないですね。無限の、そういう働きというものを、私、一身の上に、私一家の上に、お働きをなさったか分からないような、働きを私感じるのです。ね。それが、一番感じられるのは、今の、天候なんです。本当に、どの日でありましても、それこそ、暑い、暑いと言うて、結局、今はほんなら、冷房装置がしてございますから、冷房そして、部屋だけは使えましても、さあ、やはり、客殿も使わなければなりません。というようなお客さんでございましたので、えー、客殿も使わせてもらい、控えも使わせてもらうと、その日は、まあま、あー、使わせて貰わせて頂いたんですけれども、おー、ほんとに、それだけでもですね、これを、気にせんででも、そういうようにしたら、大したことだろうと、こう思うのです。ね。そういう、働きがですね。私共の、身一つの上にでも、頂けれるのが御道の信心なんです。ね。ですから、どうでもその、天地の中では、神と仲ようする信心ぞと仰るが、ほんとにこの、天地と仲ようする、日頃信心が出来ておらなければなりませんという事はです。ね。例えば、主人がどうか、こう逆らう。これは、仲のええ夫婦とはいえません。実にその、なんて言うても、どんな場合でもです。ね。そこには、お互いが、まあ、その、理解し合うていくというのが、仲のええ夫婦でありますようにです。自然の、例えば、猛威と思われるようなことであっても、ね。例えば、自然に起きてくるその事をです。と、こう、仲ようして行くとは、そういう事なのです。自然の働きを、私共が、有難く合掌して受けていく。なら、私がいつも言う。成り行きを大事に、大事にしていこうと、こういうのである。天地の働きを、大事に、大事にしていこうという事である。そこで、私が、いよいよ、ああでなからなければならん、こうでなからなければならんという時には。天地が、私の、自由になって下さる。ね。私のために、神様が働いて下さる。天地が動いてくださる。そんな感じ。いかに、御道の信心が、この天地と密着したものであるかという事を、そこのところを取り次いで下さるのが、金光様であって、ね。金光様のお取次ぎによって、天地との繋がりというか、天地の大恩を分らせて貰い。天地の大恩に対し奉って、神恩報謝の生活をさせて貰うと言う事。その神恩の中に、神様のお働きの中に、私共の、都合の良いこと、悪いこと、様々あるんですけれども、様々な問題でも起こってくるようなこともございますけれども、その、自然の成り行きというものを、大事に、いわば、実意丁寧に、そこんところへ取り組んでいくといったような信心の稽古が出来てくる時にです。ね。いよいよという時には、今度は、神様のほうが、私共任せになって下さるといおうか。私共のために、いわば、私、一人のために、神様が動いて下さる、働いて下さるというような、広大なおかげになってくるのですよ。ね。そこにあの、金光様のご信心の、尊さとか、偉大さとか、素晴らしさというのが、そこにあるのです。ただ、お願いをして、お願いを聞いて下さったといったようなものなら、それは、金光様だけに限ったことはないのだけれども、大天地と、小天地が一つになって、いけれるという事。ね。大天地のことは、小天地あって、小天地のことは、大天地が聞かせていただく。親と子がです。親の事は子が願い、子のことは親が願い。願い合い致せ。あいよかけよで、例えば、助かり合うて行くというような、その、働きをです。私共の、身一つの上に、頂いていく、現していくことの出来れる信心。ね。だから、そういう信心を、折角、縁を頂いてるのでございますから、そういうおかげの頂けていけれるですね。信心をしとかねばならん。そこには、先ほど、私が申します、ね。いよいよ、自然の働き、それから、天地の働き、その成り行きそのものをです。どのような場合であっても、それを合掌して受けていこうという信心が必要である。ね。そして、それが、きつい時には、また、苦しい時には、それをきついと言わず、苦しいと言わず、いや、きついけれども、苦しいけれども、こうして修行さして下さるんだというように、それを修行として受けていくところにです。ね。その、信心修行の辛抱の徳が身に付いてくるくらいになりますと、段々、いよいよ神様のご信用が厚う頂けるようになりますと、ね。神様のご信用がです。例えば、お前一人のために、ね。大坪総一郎一人のために、天地が自由になって下さるというようなおかげにまでなってくるのでございます。これは、大坪総一郎、一人のためではない。皆さんの一人ひとりのためにも、同じことが言えるのです。為には、先ず、天地の信用を獲得しなければならぬ。天地の信用を受けなければならない。ために、私共が、いよいよ、あらたまりもしよう、磨きもしようと、ね。そうした、精進の中に、どのような場合であっても、その成り行きそのものはです。不平を言わず、不足を言わず、不満に思わずに、そこんところを、ね。いわゆる、合掌してうけていこうと、こういうのである。そういう、私は、稽古を他にないと、御道の信心、ね。そこに、いわば、天地が私共のために、自由になってくださるというようなおかげも頂けれる。昨日の暑さ、今日の涼しさ、とても、とても、人間の知恵、力で出来る事ではない。これだけの天地をです。あれだけ暑くしたり、このように冷やしたりして下さるという、そういう偉大な、偉大なというよりも、そういう、もう、どうにも言いようのない程の働きというものがです。そういう働きが、私、一人のために頂けれるというのですから、そら、確かでしょう。今日はその、丁度、朝、御祈念が終わったころでした。あのう、二十人あまりの方達が、どやどや入って見えて、まあ、拝まして下さいと言うて見えました。ま、ここ、なら、見にみえられた訳でしょう。見慣れない方達だったらしいです。そしたらここで、お届けをして、今日は、どっか、旅行におい出られる。どうか、無事に旅行がおかげ頂かれるようにと言うて、まあ、お話する時間もございませんでしたけれども、ここを、一遍どうり見せてくれと言うて、見て廻られましたが、先生、大したこっでございますねえ。もう、ここが出来とる。立派に出来とると言う事は、噂には聞いておりましたけれども、来て見てから、またびっくりしましたち。大橋中の誉れでございます。勿論、お世辞でございましょうけれどもです。ね。そういうような、例えば、人間の考えでは、考えもつかない、及びも付かないというような働きというものがです。ね。この、頂けれるのが、信心だという事です。でしたら私にも下さいと、いうただけじゃいかんのです。今日、私が、申しましたようなところを、実意丁寧に取り組んで、その事を大事にしていけれる信心が、勿論、大事だと言う事が分かりますですね。どうぞ。